事実は神である 2

人びとは誰でも、どういうわけかこれに接すると、「あっ!」と感じたり、その中にのめり込んでいくのです。


自ずとその渦中に参加してしまうようです。


先の荷札の事例は、このことを実によく示しています。


私も、アフリカの飢饅について知識としては持っていましたが、それだけに留まっていました。


それが昨今のように、骨に皮を貼り付けただけのように痩せ衰えた子どもたちの目や口元にハエが集まっている姿がテレビに写し出されると、やはり、あの人たちにできることは何かを、我が身に問いかけ始めて、じっとしてはいられなくなってきます。


誰でもがそうではないでしょうか。


私はかつて、鎌倉から東京に通勤していました。


横須賀線で新橋までは、生意気にもグリーン車のリクライニングシートで、うとうととしていい気持ちの一時間でした。


新橋駅に着くと、大勢の降りる人のざわめきと車内や駅のどでかいアナウンスで目を覚ますのですが、私は忘れ物の"常習犯"でした。

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